( bos et asinus 1 の続き)
他方、13世紀後半に書かれ、中世を通してよく読まれたヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』の第6章「主のご降誕」では、イエスが生まれたとき、この慶事を万物が証したと、次のように述べられています。
他方、13世紀後半に書かれ、中世を通してよく読まれたヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』の第6章「主のご降誕」では、イエスが生まれたとき、この慶事を万物が証したと、次のように述べられています。
第一に石のように物体的存在だけをもつもの、主の降誕を告知した。[…]第二に、存在と生命とをもつ草花や樹木などの被造物も、主のご降誕の証しをしめした。[…]第三に、存在と生命と感情をもつ被造物、つまり動物たちも、ご降誕のしるしをあたえた。ヨセフは身重のマリアとともにベトレヘムに出かけたとき、一頭の小さな雄牛をつれていた。たぶんそれを売って、その一部を自分とマリアの人頭税にあて、残りを生活費にするためであった。また、小さいロバも一頭つれていた。おそらくマリアを乗せるためであった。この二頭の動物たちは、生まれたばかりのみどり子をわれらの主だと知り、ひざまずいて礼拝したのである。[…]第四に、存在と生命と感情と理解力とをもつ被造物、つまり人間も、証しをした。それは、その時刻に家畜の群れの番をしていた羊飼いたちであった。(前田敬作・今村孝訳『黄金伝説1』、平凡社、2006年、114-117頁より)「石」よりは「草花」の方が、「草花」よりは「動物」が、そして「動物」よりは「人間」の方が、より多くのものを神から任せられていて、序列のようなものができあがっているのがわかります。たしかにウォラギネは、動物たちを人間に劣る存在、理解力のない存在として描きました。けれども、劣っていようが、秀でていようが、すべての被造物は、それぞれ神から委ねられた分に応じて精一杯、主のご降誕を告げたのだ。ウォラギネはそう伝えたかったのでしょう。「石」は異教の神殿からバラバラと落ちることによって、「草花」は花を咲かせ、実を結び、その実からバルサムが流れ出て芳しい香りを放つことによって、「動物たち」はひざまづいて救い主を礼拝することによって、そして「人間」は天使のお告げを理解し、駆けつけて主イエスを礼拝することによって…(石と草花のお話は同じ6章に出てきます)。
わたしたちも、ときどき人間らしからぬ恥ずかしい考えをもったり、実際にそれを行動にあらわしてしまったりすることがあるかと思います。後で後悔し「ああ最低だ」「人間以下だ」などと落ち込んだりします。凹みます(←「理解力」の分が欠けている。笑)。
でもそんなとき、同じ「人間以下」ではあるけれど、とても謙虚な牛とロバが、飼い葉桶の傍らで、わたしたちに「ひざまづくこと」を教えてくれている......そう思うと、なんだか少しホッとします。
ちなみに、上には上がいるもので、人間の後、ウォラギネは、最後に、最上の被造物として「存在と生命と感情と理解力と認識力」をもつ生き物をあげています。羊飼いに救い主の誕生を告げた、天使です。
( bos et asinus 3 に続く)